『世界が変わる現代物理学』(竹内薫・ちくま新書、2004)を読む。
たとえば、『物理学の再発見I』(高野義郎・ブルーバックス、1976)と比較して、文体などに大きな違いがある。前者は口語で語りかけるような文体になっている。こうした柔らかい文体というのは、最近の新書の全般的な傾向だろう。
これは何を意味しているか。まず世の中みんなバカになってる(笑)、というのはあるだろう。それ以外には、人(語り手)が前に出ている。つまり、この場合だと、本を好意的に読んだ場合、物理のファンにならずに作者のファンになるんじゃないかと思う(竹内薫氏は小説も書いてるようだが)。客観的な学問、教養の体系というよりは、人(主観、解釈)を前に出して、そのことを売りにしているのだ。
『三浦梅園自然哲学論集』(岩波文庫)の中で梅園自身が、文中に挙げている書物をピックアップしてみた。以下ですべてのはず。
『中庸』、『論語』、『荘子』、『大言賦』、『周礼』、『大戴礼』、『易』、『漢書』、『左伝』、『著聞集』、『日本紀』、『続日本紀』
また『黒い言葉の空間―三浦梅園の自然哲学』(山田慶児・中央公論社)中で、梅園の読書日記『浦子手記』に記されているとする書物をピックアップしてみた。こちらは一部だけ。
『理学類編』、『書集伝』、『象山集要』、以上宋学
『勝鬘経義疏』、『六祖壇経』、『楞厳経』、以上仏書
『黄帝内経素問』、『黄帝明堂灸経』、『本草綱目』、以上中国医学書
『淮南子』(えなんじ、道家の系譜の哲学概論)、『天経或問』(西洋天文学説)、『荘子』、『列子』、『平家物語』、『東鑑』、『朱子語類』
現代の我々と教養のベースがあまりにも異なっているので、びっくりしてしまう。
三浦梅園関連のサイトを巡っていると、「弁証法」と関連付けられて語られているケースがある。あるいはもっと広げて、西洋哲学との比較、関連付け。もっと広げて現代との絡み。
西洋哲学との比較、関連付けは、「日本の哲学だって結構イケてるんですよ」というキャッチーさ、宣伝文句としては効果があるだろう。しかし、三浦梅園のインプットしたもの(得ていた情報、知識)と、アウトプットしたもの(著作物)の間で見ていくのが基本ラインだと思う。内在的な検証というか。
あるいは、ある程度文明が発達したら、似たような考えを持つ人が独立して(並行して)、現われるということもあるのだろう。
『黒い言葉の空間―三浦梅園の自然哲学』(山田慶児・中央公論社)を読む。
この本によれば、三浦梅園の読書日記『浦子手記』には、道家の系譜の哲学概論『淮南子』、西洋天文学説『天経或問』をはじめ、『荘子』『列子』、宋学、朱子学、仏教書などの数多くの書名も記されており、三浦梅園の思考はこうした当時の分厚い教養の上に成立していると思われる。また、陶弘景(456-536、漢方医、道教家)、韓康伯(4c)の人となりを慕っていたという。
現代人と教養のベースが違うのに驚く。儒仏道のうち、儒と仏はまあなんとなくわかるが、道教の教養の系譜というのは、医者の間でしか受け継がれていなかったのだろう(現在でも鍼灸の世界がある)。為政者や官僚は儒教、庶民は仏教、医者は道教といった感じ。
このように、江戸時代ぐらいまでは、儒仏道すなわち中国系の教養が中心であった(蘭学などもあったが)。そして、明治維新で「脱亜入欧」、戦後はさらにアメリカへとシフトしていった。
主張そのものをしたいという欲望がある(「ああ、すっきりした」というような)。また、主張によって何かを富を得たいという欲望もあるだろう。
結局のところ、主張というのは、富の配分に関する「政治的な事柄」の範疇だ。